新選組 (後編)
いつもお世話になっております。長岡京店の澤田です。
前回に引き続き、幕末の京都で活躍した新選組の足取りをたどって京都の街を自転車でウロウロしてきました。
「新選組 後編」です。
※石碑や高札に書かれている説明文や、書籍、Web、Youtube、などで調べた内容です。内容に間違いがあればご容赦願います。
前編でご紹介しました、壬生浪士組はめでたく幕府公認の「新選組」と名付けられて隊士たちははりきって幕府の警護と京都の治安維持に新選組のダンダラ羽織を着て頑張っていました。
しかし、時は流れて・・・
その頃の世論は「もう徳川幕府は弱くなってるんじゃね?」とだんだんと時代の変化を感じているようです。
1867年の大政奉還 → 王政復古の大号令 と、時代は新政府に移ってきました。
そして少しずつ新選組の居場所が無くなりつつありました。
そんな時に、鳥羽・伏見の戦いが始まりました。
鳥羽・伏見の戦いの全体像がこんな感じです。(手作り地図ですいません)
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まずは、京都市伏見区の鴨川に架かる小枝橋に来ました。
1868年1月3日に、旧幕府軍と薩摩藩との鳥羽街道口でのもめ事が戦いのきっかけになったそうです。
旧幕府軍が大阪から京都へ進軍して、迎える新政府軍の薩摩藩がここで立ちはだかり、通せ!通さない!の押し問答の末に戦が始まったと言われております。
東高瀬川の戦い跡
こんなきれいな所で戦があったとは・・・
伏見口の戦い跡
次は宇治川沿いを淀方面へ下り、千両松の戦い跡に来ました。
ここは、鳥羽街道口の戦いで新政府軍に押された旧幕府軍と新選組が助けを求めに淀城に向かった場所です。しかし淀城に入れてもらえず、厳しい戦となったそうです。
ここは旧伏見奉行所跡です。
当時の伏見奉行所は旧幕府軍と新選組の陣地だったそうです。
すぐ北300mにある御香宮には新政府軍が陣を構えて最新鋭の大砲を伏見奉行所に向けてバンバン打ち込んで旧幕府軍と新選組を撃破したそうです。
旧伏見奉行所跡近くに 料亭 魚三楼 があります。この歴史ある料亭の格子枠には鳥羽伏見の戦いでの鉄砲傷(弾痕)が今もハッキリと残っています。道路から見られますので通りすがりにでもご覧ください。
そんな事で、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争に広がり、戦の舞台は関東に移りました。その関東では 新選組局長の近藤勇は捕縛され、副長の土方歳三もついには函館五稜郭の戦いで討たれてしまい旧幕府軍・新選組は壊滅となりました。
新選組 と、聞きますと、映画やドラマなどで取り上げられて“幕末のヒーロー“ ”若い侍たちの集まり“など爽やかなイメージがありますが、実際には、”凄腕の剣豪“ ”仲間割れ“ ”裏切り“ ”時代に取り残された“ など爽やかなイメージとの違いもあって興味深いですよね。
次回は「応仁の乱」あたりの年代を探索しようか?
「戦国時代」あたりの年代を探索しようか?
それとも「太平洋戦争時代」を探索しようか?
色々考えております。